人を殺してはいけない理由は本能的なものだが、人類においてその制限が外れる理由
◇ 「なぜ人を殺してはいけないのか?」の疑問には誰も答えられない - はてな村定点観測所
こういう疑問の回答は、人類と人類以外の生物を比較すると、結構、謎が解けたりする。
人類以外の生物は例外はあるだろうけど、「同族殺し」がタブーになっていると言われている。
こういう「タブー」というのは、人間、個人個人ではなく、集団のルールとして規定されていて、人類においても「同族殺し」がタブーになってるのには変わりないとは思う。
たぶん、DNAレベルのプログラミング=本能的なタブーだと思います。
これが答えです。非常に単純です。
◇ ところが、人類においては特に戦争とかの場合、別の集団の人間、味方以外の人間を殺すことは善とされることがある。
これは聖と俗、ハレとケ、日常と非日常の世界で、人類のタブーとか禁忌のルールがシフトするシステムが存在することを意味する。
非日常の世界=戦争時や非常時には人を殺すことが善とされることがある。
人間以外の生物においても、食物連鎖、生きるためには他の生物を殺してもいいことになっている。
◇ これを合理的に説明しようとすると、食物連鎖の頂点にいると思われる人間が「同族殺し」のタブーの制限が外れることがある理由を推理すれば、「同族殺し」のタブーを外さないと、人類の人口調整ができず、生態系のバランスが取れないからです。
このシステムはおそらく、地球、ガイアシステムレベルのシステムの一環と思われます。制御システムですね。
(地球、ガイアシステム)
非日常の時空間で「同族殺しのタブー」を外して人口調整して、生態系のバランスを取ろうとしている。
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(人類のシステム)
集団の秩序を保つために、日常的には「同族殺し」はタブーである。
↓
(個人のシステム)
◇ アーサー・ケストラーの「ホロン理論」というのがあるのですが、経済人類学の「層の理論」と同じものですが、こういう生物とか、社会とかシステムを階層的に考えていくと、今回の問題の混乱は避けられます。
「地球、ガイアシステム」と「人類のシステム」は利益相反にあるのですが、「人類のシステム」的には、人を殺すことはタブーです。
ただ、「地球、ガイアシステム」から見ると、たまに人類同士で殺し合ってもらわないと、地球環境の破壊が進んで困るわけです。
地震や津波などの被害もそういうシステムの一環だとか、温暖化だとか、異常気象もそういうシステムの一環なんだろうかと考えるときりがないですが、そういうものかもしれません。
経済人理学の「過剰蕩尽理論」とか、「層の理論」を考えていくなら、人類を下位システムとする『ガイア』のような上位システムが存在するのは理論的に予測できます。
そういう『ガイア』の制御システムの一環として、人が人を殺してしまったり、戦争が起こると考えた方が合理的だと思います。
つまり、「人類のシステム」では説明できないタブーとか、現象は、人類より「上位のシステム」の一環ではないかと予想できるのではないでしょうか?
◇ SF作家のフィリップ・K・ディックの「ヴァリス」とか、半村良の「妖星伝」だとかに、こういうお話は書かれています。
半村良のSFマガジンでのデビュー作が「収穫」というもので、人類を「収穫」しにきた異星人の話だったと思います。
ガイア的視点からみれば、どんどん増殖する人類なんかガン細胞みたいなものだし、人間がガンにかかったら、可哀そうだからガン細胞は殺すのやめましょうと思うことはない訳です。
庵野監督の「トップをねらえ!」でも同じような話が出てきますね。
ガイアの立場になれば、人を殺すのは当然ですね。そして、そういう人類を殺すシステムは最初からDNAに埋め込まれてると考えるのが普通です。
食物連鎖のシステムを自分で設計してみれば分かると思いますが、そういうシステムがないとガイア自体が滅んでしまう訳です。
そういう人類より上位のシステムの存在を想定して社会問題を考えたら、ノイローゼになるかもしれないので、やめた方がいいです。
世の中には知らない方がいいことがいっぱいありますね。
「モグラ男と、ひかり姫」は、2014年8月アルファポリス「第7回絵本・児童書大賞」エントリー済です。応援よろしくお願いします。