努力と才能の関係、小説家の本質と書籍化の関係
◇ 小説家になるための戦略ノート - 努力と才能の関係、小説家の本質と書籍化の関係
よく議論になる「努力と才能」のお話です。
才能が問題になるのは、ひとつの分野で1万時間ほどの必死の努力をしてからと僕は思います。この努力というのは妙な感じがする言葉です。
1万時間といえば、1日3時間×3333日ぐらいで、大体9年ぐらいですね。
それ事前に、何も成果がでなければ3年ぐらいしか持たないと思われ、そういうことが続かないということは、その分野は向いてないのかもしれません。
何か物事が継続するには、そのこと自体が楽しいとかの何らかの報酬のようなものがあるのでは?と思います。
何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続しているのは非常に大変なことであり、私は、それこそが才能だと思っている。
羽生善治(日本の将棋棋士、十九世名人 / 1970~)
僕は「努力とか才能以前の問題が、実はこの問題の本質だ」と思っています。
報われるかどうかわからないのに、どうしてそれを続けてしまうのか?
それはそれをすること自体が快感、楽しいからに他なりません。
歴史上の天才と呼ばれる人間で、生前は評価されず、死後に評価された人が沢山います。
例えば孔子でも、イエスキリストでもそうですが、生前、ろくな人生を歩んでません。
孔子は諸国を巡って政治の舞台で活躍もしましたが、その理想は実現できず、命を狙われたり、亡命の連続で、子供の鯉は50歳ぐらいで亡くなるし、愛弟子の顔回には先立たれるし、弟子の子路の遺体は「醢(ししびしお)」にされたりしている。「醢(ししびしお)」とは、死体を塩漬けにして、長期間晒しものにする刑罰である。
イエスキリストはユダに裏切られて磔にされて殺されてるし、キリスト教自体がこんなに発展するとは本人も予想してなかったと思われます。
◇ だから、才能というのは、その人の能力ではあるのだけど、結局はその人の生き方そのものと不可分のもので、志、姿勢、本気度というか、その人存在そのものとイコールになるものと思われます。
「努力と才能」の議論自体が無意味で、その人の生きる姿勢そのものの問題と言えるかもしれません。
本を出して小説家になりたい!というお話は分かるのですが、それ以前に自分は何故、この物語を書きたいのか?書かないといけないのか?という自分の内的衝動の方が大事なような感じがします。
それが評価されるかどうかは、その後の問題であって、小説家になりたいという人には大事なことなんでしょうけど、どうでもいい話だと思ってしまいますね。