白川静と経済人類学から見えてくる『日本史』における馬と船の文化
10/25(土)立命館アカデミック企画 白川静と漢字教育(岡山シンフォニーホール 講師 武田鉄矢)
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白川静さんは立命館の先生で漢字博士なんですが、漢字の呪術的解釈で独自の世界観を提示しました。
『白川博士は「工」を「神をよび降ろす呪具」、「口」を「祝禱を収めた器」であると言う(「口」は「サイ」と呼ばれる)。では、なにゆえに「左」が「ひだり」で「右」が「みぎ」なのかと言うと、巫が神の居場所を尋ねて舞う「神降ろしの儀」において、左手に「工」を握り、右手に「口」を持つからだと説く。【文献3、173頁】。』
漢字の起源は中国の『殷』(商)の国の呪術的占いの結果を記録した甲骨文字(神聖文字)とか、金文(青銅器の表面に刻まれた文字)だと言われています。最初は王家の神聖文字のようなものなんですが、それが一般大衆に広まっていったのは日本にもたらされてからです。
日本の江戸時代などの識字率は異常に高く、平安時代などは漢字は一般市民までは普及してはないと思われます。中国の漢字は文化大革命などで簡略化されて、古代の漢字の文化は失われています。
中国の詩経などの文化も、日本の万葉集に残されています。
『殷』(商、長江文明の稲作海洋民族)は『周』(騎馬遊牧民族)に滅ぼされますが(殷周革命、周の軍師は有名な太公望です)、『殷』人は『商』人となって日本に渡って来ます。渡来人として『近江商人』(商人=商の国の人)の起源となります。
中国でも『商』人として残っていって、華僑、中国のユダヤ人として生き残っていきます。
殷は、中国南部にも航海していた倭人=海人族の隼人などの弥生人とも交易していて、この際、子安貝(沖縄とか、東南アジアの南部にしかない)などを貨幣として用いていたので、『貝』は貨幣とか財産の漢字には必ず出てきます。
古事記などには隼人呪術がよく出てきますが、この起源は殷とかの呪術なのかなと思ってますが、岡山県(吉備の国)の海部は隼人であり、温羅(うら)伝承などでも、吉備津神社の祭神として、海人族は祀られているようです。
稲作をもたらした弥生人は中国南部から来てる人が多く、隼人とか、殷人(商)もこの文化を携えて、日本に渡ってきています。
弥生時代の次は古墳時代ですが、古墳(北ユーラシアのクルガンが起源?)は騎馬遊牧民族国家の特徴で、法隆寺の聖徳太子の木造は朝青龍そっくりの顔で馬をひいてたりします。奈良に残る古代チーズもありますし、蘇我氏は完全に騎馬遊牧民族ですね。近くの藤ノ木古墳からは金銅製(金メッキ)の馬具が出てきてますし、聖徳太子の髪型の角髪(みずら)は北ユーラシアの騎馬遊牧民族的なものです。
角髪(みずら)
チョンマゲが大陸の南方文化に多いのに対し、みずらのようなおさげ文化は、大陸の北方文化に見られる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E9%AB%AA
蘇我氏のバックは、新潟あたりの越の国(扶桑国)なんですが、ここの古墳からも金銅製(金メッキ)の馬具が出てきます。継体天皇なんかはここから出て来たりしています。
日本最大の古墳は、応神、仁徳天皇陵ですが、この辺りも国際色豊かだし、ちょっと考察してみる必要がありますね。
古代、裏日本と表日本は逆だったようで、百済や任那の鉄の文化→出雲へ伝わり、渤海、高句麗などの騎馬遊牧民族文化→越の国などの北日本に伝わり、殷、呉の国の長江の稲作文化→隼人などにより九州経由で吉備にもたらされています。
吉備の国に、吉備真備(陰陽師の開祖)や総社辺りに昭和の時代までいた陰陽師集団「上原(かんばら)大夫」の呪術文化は、 殷、呉の国から九州経由(隼人)で中国から直接入ってきてるようです。大和朝廷より中国の情報が早く伝わってきたようです。
四国の高知県物部村にもイザナギ流という式神を使う陰陽道のようなものが伝わっていますが、これは明らかに太平洋側から黒潮に乗って殷の文化が直接伝わってきた可能性もあります。京都の陰陽道とは別系統とも言われています。『物部村のイザナギ流』自体が天皇家より歴史が古いことを示してるし。
遣唐使に吉備真備や弘法大師空海(香川県佐伯氏という古代氏族出身)が派遣されたのも、中国とのつながりや文化的背景があったからかもしれません。
吉備の古墳群の石棺や石は、香川、九州から運ばれてきたようなので、これは完全に船による輸送と思われます。
古代日本には平地が少なく湿地帯ばかりで、交通手段のメインは船によるものでした。吉備の中海とか、縄文時代は縄文海進で総社市辺りも海の底で、紀元三世紀頃、岡山市、倉敷市は存在せず、海の底です。船ないと移動できません。
古代の奈良は水の都と言われていますが、北ユーラシア(従来のシルクロードではなく、もっと北の草原のシルクロード、文明の高速道路で馬なんで情報早い)→渤海、高句麗などの中国北東→丹後半島→琵琶湖(近江商人の本拠)→奈良という大陸と海の文明の高速道路があったりします。奈良湖とかあって、船だけで移動できるのです。
奈良京都が都だった理由の謎 古代史漫談
『大阪湾は日本海ルートと黒潮ルートを繋ぐ内海にある湾
そして西日本を貫く 瀬戸内海ルート
この三大ルートを繋ぐバイパス港が大阪湾なわけよо(ж>▽<)
そこにつながるのが大和盆地なのだ
正倉院がシルクロードの終着点といわれるのは
この水運アクセスの終着点だからなのだ』
日本史の謎は「地形」で解ける | 竹村公太郎著 | 書籍 | PHP研究所
(奈良が古代文明として何故、栄えたのかの理由、湿地帯が多い地形→塩田→近代において干拓が進んで平地化などの歴史がわかります)
「ゆがめられた地球文明の歴史」刊行記念:栗本慎一郎氏ロングインタビュー①、『シリウスの都飛鳥』(栗本慎一郎著、日本国家の基礎を作った蘇我氏の起源を探った本)
紀元645年の大化の改新で蘇我氏本家は滅ぼされ、聖徳太子の上宮王家も蘇我氏内部の内乱で全滅します。
この事件は天皇と姻戚関係を結び天皇になりかけて猛威を振るっていた騎馬民族王朝の蘇我氏の滅亡で(実は東日本に勢力は残る)古墳時代(400~700年頃)は終わっていきます。
これとよく似た事件は、本能寺の変(信長による天皇家(弑逆未遂?)への反乱)だったりするのですが、天皇家自体は騎馬民族的性格もありますが、中核は稲作、海人族文化も重視していたのでそのあたりの対立だったのかな?政治的なものだったのかは?ちょっと不明です。
あと、東日本に残った騎馬民族文化は『鎌倉の武士の台頭』にて復活しますが、武士がいきなり馬に乗ってるのがちょっと今まで疑問でした。日本の交通は船によるものが多かったし。
馬の伝来が4世紀頃(一説では紀元前1世紀の漢で改良された「蒙古草原馬」が2~3世紀、朝鮮半島経由で渡来)、古墳時代は4~7世紀(その後は蘇我氏の飛鳥時代になる。~710年まで)、仏教が552年頃になります。
蘇我馬子、蝦夷なんかモロの名前だけど、蘇我自体が蘇(醍醐味の醍醐も乳製品)=古代チーズと関連してるという説もある。
『蘇我入鹿は林太郎とも言いましたが、入鹿とは IR+KA=入鹿です。IR、は(続き、血統)と言う
意味で、KA=カ、はこれも(糸、髪、細長いもの、血統)を意味します。
蘇我入鹿は『万世一系』と言う素晴らしい名前を持つ天皇であったのです。』
『日本在来馬の起源は、古墳時代に家畜馬として、モンゴルから朝鮮半島を経由して九州に導入された体高(地面からき甲までの高さ)130cm程の蒙古系馬にあるという。また、古墳時代には馬骨や馬具が考古遺跡から出土しており、日本在来馬の存在が確認される。』
源氏(騎馬)と平氏(船)の対立とか、この二系統の民族は相性が悪いのでしょうか?実際は源氏も北条氏などの平氏勢力に取り込まれていくのですが、この辺りは利害関係によって組む相手を変えたりしたのかな。
白川静の話から日本の歴史に話が脱線しましたが、新潟(古代扶桑王国)の田中角栄、島根の竹下登(出雲王国)の時代、日本列島改造論によって高速道路網の整備が中心になりましたが、鉄の馬(自動車、新幹線)が発展したのは偶然だとは思えません。
日本は貿易立国なので船の文化(商人)も発達してますが、鉄の馬(自動車、新幹線)的発想は騎馬民族的発想なのかなと思ってしまいます。
それを担った民族が日本渡ってきたのを想像すると、長年の日本史の謎がいろいろと解けていくように思います。
白川静の漢字学(孔子の儒教呪術的解釈。孔子の母親が巫女さんで、『儒』の起源は雨乞いをする巫儒です)は面白いですよ。
「3)孔子の出身は古代から葬礼を取り仕切ってきた「儒(≒巫祝者)」の系譜であり、若いころに礼楽一般の教養を修めようと志したことが後の該博さの基礎になっている。(当時は詩経や楽謡、それに呪(まじな)いは未分化であった。)」
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