殺人と戦争の生命論的考察、ジョルジュ・バタイユ『呪われた部分―普遍経済学の試み』
◇ 人を殺してはいけない理由は本能的なものだが、人類においてその制限が外れる理由 - 新世紀の生き方、物語の世界
昨日の日記の続きなのですが、確かフランスの思想家ジョルジュ・バタイユという方がいて、著書の中でこんなことを言っています。
では、本題である『呪われた部分』の論旨を見て行きたい。まずは、「エネルギー流動」と「過剰さ」について取り上げたいと思う。バタイユの試みる「経済学」は金銭や商品のみを対象とした従来の偏狭なエコノミクスではない、バタイユが対象とするのは生命そして生命が組み上げる自然/文明をすべて包括しうる、エネルギーの経済学である。この世界が展開するための機構と機構を稼働させる燃料とをすべて対象とする超域的な経済学なのだ。そして、地球上のエネルギーの根源は、太陽から放射される熱である。この熱は、補給や見返り無しに地球に与えられる。この熱は循環したり、回収されることがない、この熱の本質は「過剰なるもの」である。他方、熱は生命体を生み出す。生命体がこの熱によって産み出されるなら、生命体の本質は「過剰」である。本質としてのこの「過剰」をどう処理すべきかというのがバタイユの問題意識の所在する場所なのだ。バタイユはこの莫大なエネルギーを放つ太陽というイメージを文学作品で幾度も描写している。第一に「イエスヴィァス山」で描かれた噴火のイメージであり、「太陽肛門」ではそれは肛門における排泄作用として描かれる。「過剰が吹き出す」というイメージが、太陽と肛門を重ね合わせるのだ。しかし、猿が人間になるプロセスにおいて、彼は肛門を足の狭間へと隠してしまう。では、エネルギーの過剰は何処へ向かうのか?それは元々存在した太陽を目指し、身体の上部へと向かい、太陽を見るためだけに眼球を作り出す。それが「眼球譚」のイメージなのだ。つまり、過剰なエネルギーは何処へ向かうのか、それがバタイユの第一義的な主題なのだ。そして、この問いにバタイユはこう答える。過剰である限りは、それは過剰なまま浪費されなければならない。つまりそれは有効性に還元されることなく、無意味に使われ、喪われなければない、と。
地球上に降り注ぐ太陽エネルギーは過剰すぎるので、その過剰さは、生命の過剰さとして現れる。
最終的には過剰な生命は何の有用な意味もなく、無意味に浪費、消費される宿命にあるというお話です。
戦争とか、殺人も実はそういう過剰な生命のガイア(地球)における処理システムの一環ではないか?という思想を提出しています。
近代資本主義社会は、「等価なものの交換」しか知らない。現代においては貨幣という共通の尺度を設定し、その体系に従い商品に価格を付け、貨幣と等価な商品を交換することで商品経済は成立している。また、古代の人々が行なった交換も自分に欠けたもの、必要なものを他者から受け取り、その代わりに相手に自分の物を与えたのだと我々は想像する。そこでもやはり、価値の釣り合いが双方の合意に含まれ、等価交換として当時の交換様式は捉えられる。しかし、原初の人間はその意識はなかった。それは「結果として物と物を交換したかのように見えた」だけである。原始社会の「交換」は、「有用性」つまり効用と切り離されているのだ。では、古代の交換は何と深く結びついていたか?古代社会においては、狩猟や農耕で獲得された収穫物は、むろん自分たちで消費もしたが、まずは「初物」として神に供儀された。それは消費することが「何か役立つ」と見越された上での消費ではない。消費それ自体の中に、究極的な目的が蔵されているのだ。この消費は「非生産的」な消費として見える。これこそが「蕩尽」なのだ。そして、既存の経済学はこの「蕩尽」を考察することがなかった。バタイユは、エネルギー消費の働きは、二つの部分に弁別されるとする。第一の部分はなにかに還元可能なものであって、一定の社会に属する諸個人が、生命を存続させ、生産活動を持続させるのに必要な最小限に生産物を使用するという働きだ。第二は、非生産的な消費である。即ち、奢侈、供儀、葬儀、戦争、祭礼、見世物、倒錯的性行為、そして後で述べる贈与慣例「ポトラッチ」などである。バタイユは生産と生産的消費のみに着目してきた従来の経済学を「限定経済学」とし、自身が計画する生産活動と生産的消費活動に加えて非生産的消費活動即ち「蕩尽」を含んだ経済学を「普遍経済学」と位置付ける。
ジョルジュ・バタイユ『呪われた部分―普遍経済学の試み』 - 流薔園
現代社会の有用的で生産的な経済システム→限定経済学
古代社会に多く見られた一見、非生産的な経済システムを含む経済学→「普遍経済学」と定義しています。
即ち、奢侈、供儀、葬儀、戦争、祭礼、見世物、倒錯的性行為、そして後で述べる贈与慣例「ポトラッチ」
現代社会の経済システムから見れば、一見、無駄なものに見える非生産的な経済システムですが、地球に降り注ぐ太陽エネルギーの過剰=生命の過剰がある限り、非生産的な経済システムが存在しなければ、ガイア自体の生命システムが壊れてしまう訳です。
食べ過ぎて体重が200キロ超えた人間は、自分で歩けなくなり、部屋からも出れなくなります。つまり、過剰なエネルギーは無駄に消費されなければいけない訳です。
ガイア自体の生命システムを正常に運用しようと思ったら、戦争はまさに必要悪として「なくてはならないもの」になります。
全てのエネルギーを生産的な経済システム=社会の成長に回すとか、そういうことは元々、無理な話なんです。
現代社会の経済システムというのは、つまり、「普遍経済学」的視点から見ると、異常な経済システムであり、異常な社会ということになります。
現代社会の経済システムが、一見、破綻するように見えたとしても、それ自体は非常に自然なことなんです。自然の法則、システムに戻ってるだけです。
結論:殺人や戦争は生命論的、「普遍経済学」的視点からみると、自然な出来事であって、どうしてそうなってしまうのか?などを悩んでも仕方ない問題です。それが自然の摂理であるとしかいえないです。
ただ、これは理性的な考察の結果であって、人類である僕個人の意見はまた、違ったものになります。とりあえず、そういうことは起こってほしくないし、自分もそういうことはしたくないです。
◇ 栗本慎一郎氏の経済人類学の「過剰蕩尽理論」はこのジョルジュ・バタイユの思想を発展させたものです。
「パンツをはいたサル」シリーズなんかは、この辺の話がメインテーマとなっています。
ジョルジュ・バタイユの文学作品もそういうテーマがメインとなってますね。
半村良は『妖星伝』の中で、生命な過剰な地球を「妖星」と呼んでいますが、結構、そういうテーマの重複がありますが、別にバタイユに影響された訳ではないと思います。
しかし、佐世保の事件のように個人が殺人を起こしてしまう理由は、退屈からの逃避といいますか、生きる強度を上げるというか、一瞬ですが生命の充実感が得られてしまうということだったりします。
退屈だから殺人を起こすというのは、あれですが、退屈な日常から逃れ、非日常のワクワク感を犯人が求めたのは確かだと思われます。今回はそういう事件だと思います。
禁忌、タブーを犯すことは、永遠に続く終わりなき日常を突破するための反則技なのですが、非日常体験によって人の生命は燃え上がるというか、充実感、快楽を得てしまう訳です。
現代社会の日常とは未来のために労働したり貯金したり、「今のここの快楽、楽しみを先延ばしにする」ことです。
バタイユさんが普遍経済論で強調したかったことのひとつは、「いま・ここ」の生の充溢にあった。あとで詳しく論じるが、労働とは、将来の生産物(成果物)を得るための活動であり、将来のために現在を犠牲にしてしまう。そういう有用性を最優先して「いま」を味気ないものに貶めてしまう人間存在のありよう、それを支える資本主義と「マルクス主義」にたいする異議申し立てでもあった。消費(蕩尽)を対置することでそれを行った。
倫理的にも、法律的にも、殺人はいけないことなのですが、退屈な日常を突破して非日常の時空間、「今、ここを楽しむ」という視点、「普遍経済学」的視点からみると、反則技ながら有効な方法かもしれません。
僕にとっては、一見、こういうお金にならない文章を書くことは、実は非日常の時空間体験であり、小説やエッセイ書くのも、そういう意味では非常に意味があることです。
生の充実感を得る方法は、殺人や戦争である必要性はかならずしもない訳で、他に色々と方法はある訳です。
それこそ、無駄遣いとか、ギャンブルとか、夏の花火とか、文化的な活動全般はそうですし。
結局、その人の趣味の問題というか、殺人が趣味というのもおかしな話ですが、困った人です。まったく。個人の趣味を社会問題にして欲しくないものです。
「モグラ男と、ひかり姫」は、2014年8月アルファポリス「第7回絵本・児童書大賞」エントリー済です。応援よろしくお願いします。