新世紀の生き方、物語の世界

栗本慎一郎の経済人類学、白川静の漢字学、日本の古代史、日本人の起源論、小説や好きな本の話題など書いていきます。何ですが、ニュースとか、ネットの話題も多いです。

真名と仮名、白川静、ゲド戦記、野生の思考

 

白川静 漢字の世界観 (平凡社新書)

白川静 漢字の世界観 (平凡社新書)

 

 
◇ 白川静さんの本、読んでたら、万葉集の時代には、漢字のことを『真名』(まな)と呼んでいて、それに対して、万葉がなとか、ひらがな、かたかなのことを『仮名』(かな)と呼んでいたらしいです。

千と千尋の神隠し』&『ゲド戦記』の世界だなあと思ったりしますが、『ゲド戦記』の世界では、本名である『真名』(まな)は秘密にされていて、『仮名』(かな)というか、普段は、ニックネーム、仮の名で呼ばれています。本名を知られると、呪術的に操られてしまうからです。

ジブリの『千と千尋の神隠し』の中で、千尋も、ゆばあばに本名を奪われて、『千』という仮の名を付けられてしまいます。『千尋』という本名を思い出すことで、『千』はゆばあばの世界から逃れることができるようになります。


ジブリ宮崎駿の作品には、『ゲド戦記』の中のモチーフが詰め込まれています。

まず宮さんが「今日は俺に話をさせてくれ」と、「ゲド戦記」への思いを話し始めました。「本はいつも枕元に置いてある。片時も放したことがない。悩んだ時、困った時、何度読み返したことか。告白するが、自分の作ってきた作品は『ナウシカ』から『ハウル』に至るまですべて『ゲド戦記』の影響を受けている」と。そして「作品を細部まで理解しているし、映画化するなら世界に自分をおいて他に誰もいないだろう」と言い切った。http://www.ghibli.jp/20special/000283.html

 

宮崎駿の作品創りのバイブルが『ゲド戦記』だった。本当は、吾郎なんかには創らせたくなかったようです。

 

今度は事前に送っておいた2枚の絵についての話になった。一つはポスターになっている吾朗君が描いた竜とアレンが向き合った絵。もう一つは宮さんが描いた第3巻のホートタウンの町の設定の絵なんですが、宮さんが突然、吾朗君の描いた絵を指して、「これは間違っていますよね」と言い出したんです。それで今度は自分の絵を指して、「これが正しいと思います」って。


――何しに行ったのか分からないじゃないですか(笑)。


鈴木 あんまり面白おかしく聞こえたら問題ですが、事実ですよ。そこから、なぜ間違っているかという説明が始まった。「このポスターのように、竜とアレンが目を合わせているのはおかしいじゃないですか。そうでしょう、ル・グウィンさん」と
http://www.ghibli.jp/20special/000283.html


7年後ぐらいに、 宮崎駿監督の『ゲド戦記』&庵野秀明監督の『ナウシカ2』(実はクシャナ戦記w)の同時公開して欲しいですね。

 

それはともかく、東南アジアのタイでは、今でも本名はあまり呼ばずに、普段はニックネームを呼ぶそうです。つまり、古代のアジア的というか、そういう民族文化の伝統として、そういうものがあるというか、ヨーロッパでもそういうものがあるようです。

 

 諱という漢字は、日本語では「いむ」と訓ぜられるように、本来は口に出すことがはばかられることを意味する動詞である。

この漢字は、古代に貴人や死者を本名で呼ぶことを避ける習慣があったことから、転じて人の本名(名)のことを指すようになった。本来は、名前の表記は生前は「名」、死後は「諱」と呼んで区別するが、のちには生前にさかのぼって諱と表現するなど、混同が見られるようになった。諱に対して普段人を呼ぶときに使う名称のことを、(あざな)といい、時代が下ると多くの人々が諱と字を持つようになった。

諱で呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の人間が諱で呼びかけることは極めて無礼であると考えられた(詳細は、実名敬避俗(じつめいけいひぞく)及び避諱を参照)。

 

(中略)

実名敬避俗

じつめいけいひぞくと読む。漢字文化圏では、諱で呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の人間が名で呼びかけることは極めて無礼であると考えられた。これはある人物の本名はその人物の霊的な人格と強く結びついたものであり、その名を口にするとその霊的人格を支配することができると考えられたためである。諱 - Wikipedia

 

漢字=真名(まな)に対して、仮名(かな)ができたというのは、ちょっと衝撃でした。諱(いみな)と、字(あざな)の文化も、アジアの古代社会にあった、今でもある文化のようです。


 諱(いみな)と、字(あざな)の違いを教えてください。

 

 この質問読んでたら、日本人の昔の名前はこんにあったようです。

1 姓
2 苗字
3 字
4 諱
5 位
6 官
7 幼名
8 法名
9 神号

そういえば、『神武天皇』とか『聖徳太子』とかは、死後に贈られる、漢風おくり名で、生前はこんな感じで呼ばれていたようです。

例えば神武天皇の場合は、若御毛沼命(わかみけぬのみこと)、狹野尊(さののみこと)、そして彦火火出見(ひこほほでみ)と称された。

即位後に神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)そして、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)とも呼ばれた。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1449936784


白川静の漢字の世界観』の1ページ目の感想だけで、こんなに長くなってしまいました。

結論としては、人の名前も呪術的世界観の中でつけられるということです。

フランスの構造主義人類学のレヴィ=ストロースによれば、呪術的思考と科学的思考は、本質において同質であり、優劣つけがたいく、呪術的思考のことを『野生の思考』と名付けています。


 レヴィ=ストロース『野生の思考』

この本の解説読んでたら、科学も呪術もやはり同じような思考体系だけど、未知の領域に対しては、物事を記号や象徴として認識して、ありあわせの物で対処するプリコラージュ的思考が、呪術的思考体系ではないか?と言ってます。

小説家は、ある偶然的なインスピレーションや経験を、ストーリーや文体という表現形式として構造化する。これは、たとえばそのインスピレーションを得た時の脳の構造がどうなっているかを分析するといったような科学的思考とも違っていれば、雑多な材料を集めて神話を構造化する、神話的思考ともやはり異なっている。いわばそれは、偶然性をほどよく残した、偶然性の構造化としての表現なのである。
レヴィ=ストロース『野生の思考』

 
結局、呪術とは、人の無意識さえ、構造や法則性があるのではないか?という事実を示してるんじゃないんだろうか。

ユングの言ってたように、無意識やそこから派生した世界の神話の中に、呪術的思考や文化があり、それが世界各地の古代の文化に共通の呪術的思考(野生の思考)を生み出してるということではないかと。

野生の思考に代表される、構造主義人類学は、無意識の中の構造を探って、法則を見出すという『無意識の科学』のようなものかもしれませんね。

 

 次回、宗教と科学の話に続きます。

 ↓本が高いので、買えません。図書館で借りて、意味が分からなければ、解説本でも買った方がいいかも。

 

野生の思考 (1976年)

野生の思考 (1976年)

 

 

 

レヴィ=ストロース入門 (ちくま新書)

レヴィ=ストロース入門 (ちくま新書)