新世紀の生き方、物語の世界

栗本慎一郎の経済人類学、白川静の漢字学、日本の古代史、日本人の起源論、小説や好きな本の話題など書いていきます。何ですが、ニュースとか、ネットの話題も多いです。

幻想化社会の象徴としての『風立ちぬ』

◇ 美しいアニメをつくりたいという呪われた夢「風立ちぬ」

◇ 
日本経済新聞「宮崎駿 時代が僕に追いついた

◇ 月の眼計画と、幻想化する日本社会

 宇多田ヒカルと『彼女』

◇ 『風立ちぬ』のエヴァ化と、庵野監督の『ナウシカ2』


幻想化社会というテーマは、アーティストや文学者が、何故、麻薬に走ったり、犯罪の世界に行ってしまうのか?という問題ともつながってる。

宇多田ヒカルさんのお母さんの藤圭子さんの死も、ちょっと書きにくかったのだけ
ど、そういう問題と関係してるのではと思ったりもした。

たぶん、文学者やアーティストは、人の集合的無意識というか、『異界=幻想領域』のようなものと交信することによって、作品を生み出してるのではないかと僕は思っている。

そこは、イザナミの支配する黄泉の国のようなもので、のめり込んでしまうと、帰ってこれなくなる領域である。

ゲド戦記』にも、石垣の向こう側の世界として、黄泉の国のようなものが出てくるが、あんな感じの怖ろしげな異界が、幻想領域のイメージである。

そこに至るための道具として、麻薬があり、古代のシャーマンが神がかりする際の重要なツールのひとつが、麻薬というか、ドーパミン、セレトニンのような脳内麻薬物質を反応させる、植物由来のアルカロイドである。


そして、『風立ちぬと、幻想化する日本社会』というタイトルにしようかと思ってたぐらい、それを象徴してるのが、宮崎駿監督の一連のファンタジー作品群である。

もちろん、『風立ちぬ』も、ある意味、ファンタジー作品だし、そういう作品が受け入れられる素地が、幻想化している日本社会ではないかと思っている。

現実がファンタジーのようになってしまう世界、福島の現実をみるいにつけ、あまりにも現実社会が絶望に覆われてしまい、人が社会から自分自身の幻想へ逃げ込むような社会が出来上がってしまった。


僕がここ数日、書き続けてきたエントリーは、このキーワードに辿り着くための旅みたいなものだったのだが、ようやく、物事の本質が少し垣間見えてきたような気もする。

ちょっと、歯切れが悪いのだが、もう少し考えて、次のエントリーを書きたい。

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))